日本中央の碑(都母の石文)

都母の石文(つぼのいしふみ)とは, 桓武天皇が平安遷都したばかりの頃、 征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の首領アテルイの乱を鎮圧するため 東北に赴いた際、東北地方の都母(現青森県上北郡天間林村大字天間館坪, 旧坪村) という場所で、転がっていた石に 弓の筈で「日本中央」と書いたとされる伝説の石碑である。 京都の文化人の間では長い間有名で、西行法師(鎌倉時代初期)も 歌に読んでいる。(NHK大河ドラマ「炎立つ」では、坂上田村麻呂がアテルイを 京都に引き連れて来た事から始まり、第3部では西行法師が出ていた。)

時は移って、明治時代, 明治天皇の奥羽巡幸の際、この伝説の石碑を 見てみたいと言う事になり、青森県中大騒ぎになって捜したが結局見つからなかった。 しかし、昭和24年, 青森県東北町石文という所の山林で偶然発見された。 今は、東北町西ちびき駅の近くの自動車教習所の隣に立っている。 (多分、日本中央の碑公園と言うのも出来ていると思う。)

平らで大きな石の表面に「日本中央」と, かっきりと 彫ってあるだけである。 アテルイの乱の舞台は岩手県で, 坂上田村麻呂は岩手県までしか行かなかったと言う 話だが、なぜこの石碑が青森にあるのかは謎である。 また、なぜここが日本中央なのかもいろいろな説がある。

(参考)広辞苑:つぼのいしふみ
NHK歴史ドキュメント(1), 日本放送出版協会


大きな木の下の小さなほこらの中に石碑はある。


日本中央碑(解像度の良いビューアなら、「日本中央」の文字も微かに見えます。)

マピオン地図

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追記

上の写真は私が訪問した1994年秋のものだが、 最近出版された「別冊歴史読本, 謎の巨石文明と古代日本」(新人物往来者) によると、今では(1996年) 立派な展示館が出来て、日本中央碑もその中に保存されているようである。 多分、ふるさと創生資金を使ったんじゃないかと思うのだが、 小さなほこらの中にひっそりと眠る忘れられた石碑という風情は 無くなったんじゃないかな。